三国志NET蒼姫国
武経七書
兵法書『李衛公問対』
●陣形の原型?はなんぞや

上の巻(4)

太宗はさらに尋ねた
  「古の陣法によれば、陣形は五に始まり、八に終わり、しかもそれは物を象ったものではないという事だが
  そのあたりを詳しく説明して欲しい」

李靖:「太古、黄帝は〈丘井(きゅうせい)の法〉を定め、それを元にして軍制も整えました。
  〈丘井の法〉とは、一里四方の土地を四本の道で区切り、そこに八世帯の家族を住まわせて耕作させれ というものです。
  形は“井”の字と同じで、九つの区切りに分かれています。
  軍の陣形もこれに倣い、九つの区画のうち上下、左右、真ん中の五ヶ所に布陣し、残り四ヶ所を空き地をしました。
  これが《陣形は五に始まる》のいわれです。これが後になると、真ん中の〈虚〉に大将が布陣し
  周囲八ヶ所に陣をはりめぐらす様になりましたので《八に終わる》と言われたのです。
  これなら、いざ戦いをなって陣形を変化させ、両軍入り乱れての乱戦になっても、決して統制を乱すことはありません。
  ばらばらになったように見えても、丸い形を保って勢いを失うことがありません。
  時には分散して八をなり、また戻って一となるとはこれを言うのです」

太宗:「さすがに黄帝の軍制は素晴らしいものだ。後世、どんなに知略に長けた人物がでてきても、
  これを越えることはできまい。その後、これを引き継いだ者はいたのだろうか」

李靖:「周王朝建国の際、周の太公望は黄帝の教えを受け継いで、まず都の岐都に井田(せいでん)制を布き、
  さらに戦車三百両、兵士三千人の軍制を整えました。
  その上で《六歩七歩、六伐七伐》の戦法を教え、殷討伐の軍を牧野に進めたのです。
  百人ごとに指揮官を1人置くという統制のとれた軍で戦果を上げ、四万五千の手勢で七十万の敵を破りました。
  周の『司馬法』はこの太公望の兵法に基づいて編纂されたものです。
  太公望なき後は、斉の国の人々がその遺法を受け継ぎ、後に桓公の代になって天下に覇を称えました。
  桓公は管仲を宰相に任命し、管仲が太公望の遺産を受け継いだのです。
  これを《節制の軍》といい、これで諸侯を従わせることができました」

太宗:「儒者の多くは、管仲を覇者の臣下にすぎないと言うが、それはかれの兵法が王制に基づいたものであることを知らないからであろう。
  諸葛亮は誰もが王業を補佐する器だと認めているが、自らを管仲、楽毅になぞらえていた。
  してみると、管仲も覇業を補佐する器であったことは明らかである。
  ただ当時、周王室の力が衰えて、かれを登用することが出来なかった。そこで斉に仕えて覇業を成就させたのである
  李靖は深々と頭を下げると、
  「陛下はまことに英邁であらせられ、これほどまでに深く人を理解されておられます。
  わたくしのような老臣もそのような陛下にお仕えできて、昔、名君と巡り会えた賢人たちを比べても
  勝るとも劣らない幸せで御座います。
   さて、管仲が斉に布いた制度ですが、斉の全土を三つに分け、三軍を設置しました。
  まず行政の単位をして、家五戸をもって、〈軌〉とし、十の軌をもって〈里〉、四つの里をもって〈連〉
  十の連をもって〈郷〉、五つの郷をもって〈師〉としたのです。
  さらに軍制もそれに対応させ、五人で〈伍〉、五十人で〈小戎〉、二百人で〈卒〉、二千人で〈旅〉、一万人で〈軍〉をしました。
  『司馬法』の中で、一師が五旅、一旅が五卒に当たると記されているのも、ここに由来します。
  これらは全て太公望の遺法を敷衍したものにほかなりません」


『李衛公問対』上の巻(5)

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全訳「武経七書」(2)司馬法 全訳「武経七書」(2)「司馬法」「尉繚子」『李衛公問対』

著者:守屋洋
出版社:プレジデント社
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