三国志NET蒼姫国
武経七書
兵法書『李衛公問対』
上の巻
●『孫子』で語られている用兵に欠かすことの出来ない「正」と「奇」はなんぞや

上の巻(1)

(一)
太宗が尋ねた
  「高麗(こうらい)(朝鮮半島北部にあった国)がしばしば新羅(しらぎ)(朝鮮半島南東部にあった国)を侵略している。
  使者を立てて止める様に勧告しても、言うことを聞かない。討伐の軍を起こそうと思うのだが、どうだろうか」
李靖が答えるに
  「高麗の重臣、蓋蘇文に探りを入れましたところ、自分こそ用兵に長けていると思い込み、
  『中国には高句麗を討伐する力がない』と言っているそうです。
  まさか討伐の軍など送ってはくるまいと高を括っています。それで命令に従おうとしないのです。
  どうかわたくしに三万の軍をお預け下さい。きっと奴を虜にしてみせます。
すると太宗は、
  「そのような少ない兵力で、遙々遠征していくのだ。一体如何なる戦略戦術で臨むつもりなのか」
李靖:「正兵を使うつもりです」
太宗:「先年、そなたが突厥(トルコ族)を平定した時には奇兵を使っている。こんどは正兵を使うと言うが、如何なる訳か」
李靖:「かつて諸葛亮が南蛮を平定した時には、敵将の孟獲を七回捕らえ、七回解き放ちました。
  これもまた、正兵を使ったものです」
太宗:「なるほど、晋の馬隆(東晋王朝に仕えた将軍)が涼州を討伐した時には、諸葛亮の考案した八陣の図をもとに
  偏箱車を作って対陣している。見通しの良い土地では鹿角車を並べて布陣し、
  狭い路では車の上に木屋を作って兵士を乗せ、戦いながら前へ進んで行った。
  そなたの言う様に、古人もまた正兵を重視していた事がよくわかった」
李靖:「わたくしが突厥を討伐した際も、西に進む事数千里、もし正兵でなければ、
  このような長途の遠征には耐えられなかったでしょう。偏箱車や鹿角車は用兵の要となるものです。
  その狙いは、1つにはこちらの戦闘力を貯え、1つには敵の前進を阻み、1つには部隊の結束をはかると言うもので、
  この三つの利点がうまく組合わさっています。馬隆も諸葛亮のやり方に深く学ぶところがあったのです」
(二)
太宗が尋ねた
  「かつてわたしが宋老生をうち破った時、先鋒がぶつかり合ったあと、わが方が少し後退し、そこに敵が攻め入ってきた。
  空かさず私は鉄騎兵を率いて南原から駆け下り、敵を横ざまに突いた。
  敵軍は前後に分断され総崩れとなり、老生も虜にする事が出来た。
  この様な戦い方は、正兵と言うべきか、奇兵と言うべきか」

李靖:「陛下の用兵ぶりは天成の資質でありまして、学んで得られたものではありません。
  わたくしが思いますに、黄帝よりこのかた、まず正をもって臨み、情況に応じて奇に変化する、
  また、まず義をもって臨み、策略は後で使う、これが用兵の常道とされてきました 
   宋老生を破った霍邑の戦いに於いて、陛下は義の為に挙兵されました。これは正で御座います。
  右軍を率いて建成が落馬したため我が軍は少し後退せざるをえなくなりましたが、これは奇で御座います。」

太宗:「あの時少し後退した事で、危うく大敗を喫するところであった。
  それを奇と評するのは、何故なのか」

李靖:「戦いと言うのは、前に進むのを正、後ろに退くのを奇と申します。
  あの時、右軍が退却しなければ、老生は追撃して来なかったでしょう。
  兵法にも「有利と思わせて誘い出し、混乱させて突き崩す」とあります。
  老生は兵法も弁えず、勇猛さをたのんで突進してきました。分断される危険等思い及ばなかったのです。
  その結果、陛下の虜になりました。奇を変じて正と成すとは、これを言うのです」
 太宗は感心して
  「なるほど。霍去病(漢王朝の武帝に仕えた名将)の用兵も、兵法にかなった、うまい戦い方がおのずとできたというが
  たしかにそうだったに違いない。あの時、右軍が少し後退したのを見て、父の高祖は動揺のあまり色を失った。
  しかし、私が奮戦した結果、不利を転じて勝利を収める事が出来た。
  これも孫呉の兵法に適っていたわけで、まことにそなたの言うとおりである」


 太宗が尋ねた
  「軍を撤退させる事は、全て奇を言って良いのか」

李靖:「いや、そうではありません。撤退にあたって、旗をばらばらで整わず、金鼓の響きも不揃いで応呼せず
  号令も混乱してまとまりがない様なら、これは敗走しているだけの事で、奇とは言えません。
  逆に旗は整い、金鼓も応呼し、号令も貫徹しているなら、入り乱れて退却してる様に見えても、敗走してる分けでもありません
  その中に必ず奇を秘めているのです。兵法にも「わざと逃げる敵を追撃してはならない」さらに
  「出来るのに出来ないふりをする」とあります。こういう事がすなわち奇に他ならないのです」

太宗:「霍邑の戦いで右軍が少し退いたのは天の配剤であったが、老生を虜に出来たのは人力の致すところであった、と言ってよいか」

李靖:「正から奇へ、奇から正へと変化する事が出来なければ、どうして勝つ事ができましょう。
  用兵に長けた者は、そのあたりの機微をよく心得ているのです。
  ただし、奇正の変化は、人智を持ってしてはめ尽くす事はできません。それで天意に帰しているのです」

太宗は大きくうなずいた。

つづき『李衛公問対』上の巻(2)

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全訳「武経七書」(2)司馬法 全訳「武経七書」(2)「司馬法」「尉繚子」『李衛公問対』

著者:守屋洋
出版社:プレジデント社
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